「第五福竜丸」展示館を見学

第五福竜丸展示館の外観

【第五福竜丸とは】1954年3月1日に第五福竜丸は、太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁で水爆実験によって被害を受けました。ブラボー水爆実験の約8分後に地響き、160キロ離れていた雲が追いかけてきて、白い粉が何時間も降ったそうです。それが、「死の灰」という珊瑚のかけらが混じった放射性物質です。水爆実験での被ばく後は、練習船に改造されて大学で使用されていました。使用済み後、ゴミの山のなかで発見され、10年間にわたり守り続けた市民運動の結果、1976年に被ばくの生き証人となって保管され、展示されるようになりました。

様々な形式の署名用紙、全国各地で立ち上がった証拠

【全国各地での署名運動】被ばくした乗組員と娘の会話が、毎日ラジオで放送されました。メディアの影響は大変大きく、隠すことなく真実を伝えました。女性の行動が拡がり、全国各地で水爆実験反対の署名運動が始まりました。当時の日本人口8,000万に対し、異例の3,200万人が署名しました。これがきっかけとなり、1955年8月に広島・長崎から10年目、最初の原水爆禁止世界大会が広島で開かれ、被ばく者は声を上げるようになりました。ノーベル平和賞受賞は、被団協68年間の活動とみんなのチカラでもあると言われる所以でしょう。

【アンテナをはり、声をあげよう】他にも延べ1000隻が被害に合い、汚染魚を廃棄しています。そのため展示館の外には、マグロ塚がありました。貨物船は労働組合があり補償がされますが、漁船員は使い捨てで補償はありません。裁判では被ばくした事実は認められましたが法律がないとの判決で、泣き寝入りするしかありませんでした。常に権力を問い直し、日常の豊かな生活を守るために、市民ひとり一人の声を上げる勇気と連帯が重要です。第五福竜丸展示館の資料から事実を知ることができ、核実験禁止や核廃絶を求める理由がわかると思います。無残な死に方をした仲間の無念をはらしたい気持ちが胸に刺さりました。

主に都内、和歌山県(建造された地)の学生が送った千羽鶴

核実験から生まれた「ゴジラ」ファンの観光名所にもなっている